第四の壁 演劇交流会



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[28] 青森県のせむし男  シアターZOO

投稿者: 亜門啓太 投稿日:2015年 8月 3日(月)22時50分35秒 238.net116254003.t-com.ne.jp  通報   返信・引用

札幌演劇シーズン。青森県のせむし男を観た。
泣ける。とにかく涙が止まらない。それは若者の叫びがあまりにも真摯で、あまりにも悲劇的な美しさをもっているからである。この舞台から伝わるのはどうしようもない業を背負った人間の悲痛な叫び以外の何者でもない。役者たちひとりひとりの目は悲しいほどに輝いていて、いわば全員が泣きながら演じているように私には見えた。人間の闇は登場人物を支配しつつ、実は演じている役者の闇や業をあぶり出しているのである。観客も例外ではない。さいの河原の物語として書かれた寺山の戯曲は生きながら地獄を引きずっている万民の罪をも暴いているのだ。だから悲しみから沸き起こる涙が止まらなくなるのである。心をゆさぶられるから震えるのである。しかし悲劇的な展開をたどる物語は救いようのない人間を戯画化して見せてくれるから人は悲しみのどん底におちいることなく、むしろそこからある種の浄化を得るのだ。涙が目の奥から出るのは意味がある。あらゆるものを見つめる目は、心の奥深くに通じていて、そこから涙がわくのである。青森県のせむし男は、ふるさと人のお
化けであるとマツに言わせている。ふるさと人とは、とどのつまり連面と続く人間の鎖に他ならないと私は考える。せむし男はマツの罪の幻影であり、消し去りたかったものなのに、マツはそれに執着し、溺愛し、殺害する。そこには理性に逆行して行動してしまう人間すべての不条理が戯画化されているのであり、いわばこの舞台に登場する人物すべてが人間の一面をあぶり出す比喩として配置されている。舞台のはじでひたすら井戸水を汲み上げる男はせむし男の影みたいな存在で、絶えず誰かを追いかけ、絶えず誰かに追いかけられている人間そのものであろうと私には思えた。意味不明の単純労働に明け暮れる奇怪な男は罪と業を背負った人間のひとつのパターンであろう。ひとりひとりの動きは計算されていた。時にリズミカルにおどりながら言葉遊びに興じる噂ずきの集団は物語を単なる悲劇としてではなく、ひとつの喜劇として人間という不可解な生き物を笑い飛ばしているように見える。演出は見事だ。どこへ出しても恥ずかしくない作品だ。俳優たちはよくやりとげた。この舞台に
立ったことは生涯の里程標になることを私は確信している。この名作に携われたことをおおいに誇りに感じてほしい。


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