第四の壁 演劇交流会



カテゴリ:[ なんでもフリートーク ]


31件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。


[21] 瑣末な個人情報の垂れ流しに警告

投稿者: 亜門啓太 投稿日:2014年 9月28日(日)06時35分40秒 p10009-ipngn1501sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp  通報   返信・引用

俳優が私生活のことを公開しすぎることはけっして好ましいこととは思わない。今は誰も彼もがフェイスブックやラインなどで情報を共有し、瞬時に部屋の中まで見せてしまうことに夢中になっている。あれも一種の中毒みたいなもので、少しでも書かないと自分が取り残され忘れ去られるとでも思ってしまうのだろうか。大勢の仲間に「いいね」と言ってもらわないと満足できないのだろうか。そこからは一種病的な感じさえ受けてしまう。俳優は私生活を公開しすぎるとマイナスになることがあることをハッキリ覚えていたほうがいい。観客の心に余計なイメージが入ってしまうからだ。俳優は自分が演じる作品世界に対して常に研ぎ澄まされた感覚で対峙すべきであり、そのための勉強もいくら時間があっても足りないくらいのはずだ。ほどほどにしておくべきだと私は思う。




[20] ジャン・コクトー作 『声』

投稿者: 山本 美里 投稿日:2014年 9月22日(月)13時58分56秒 p2235-ipbf202sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp  通報   返信・引用

はじめまして!
風蝕異人街で役者をやらせていただいております
山本美里と申します。


今週末、風蝕異人街の姉妹劇団である
古典劇上演集団『テアトロ・マアルイ』の公演があるので宣伝させてください。


第2回の今回は、
フランスの作家ジャン・コクトーが1930年に発表した
『声 ~La Voix humaine~』という作品を上演します。

電話がつなぐ、ふたりの男女。
アムールの国で生まれた上質な愛の物語をお楽しみください。


ちなみにコクトーはこの作品を発表した10年後、
親友であった歌手エディット・ピアフのために1本の戯曲を
書いています。

晩年、彼は病床でピアフの死を知り、
その4時間後に息をひきとったというエピソードもあるそうです。

とても運命的でロマンチックですね・・・?


秋もだんだんと深まり人肌恋しくなるこの季節、
フランス生まれの美しくも儚い愛の世界に包まれてみては
いかがでしょうか?




テアトロ・マアルイ第2回公演
堀紀代美 ひとり芝居
『声 ~La Voix humaine~』

作:ジャン・コクトー
演出:こしば きこう

☆日時
2014年
9月27日(土)19:00
9月28日(日)15:00/19:00

☆会場
アトリエ阿呆船(札幌市中央区南4西9栄輪ビルB1)

☆料金
前売り1500円 当日 2000円

☆出演
堀紀代美

http://ameblo.jp/yamamotomisato/



[19] ストリンドベリ 2

投稿者: 亜門啓太 投稿日:2014年 9月 6日(土)09時01分28秒 p4091-ipbf302sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp  通報   返信・引用

ストリンドベリが当時のヨーロッパを席巻し始めていた芝居の傾向を嘆いた言葉が残っている。「人々は僭越にも生活の歓楽を大声で呼び求め、劇場支配人たちは、まるで生活の喜びが愚鈍であることに、舞踏病や痴呆症に取り憑かれた人間を描くことにあるかのように茶番劇ばかりを注文し始めた」
この傾向は現代も同じ構造になっているわけで、商業的に人気を博する分かりやすく滑稽で、容易に笑いや怒りや涙を誘うものに流れやすいことを物語っている。果たして芝居はそんなに分かりやすくていいのだろうか。そんなに単純に理解され、皆が同じように感じうるものであっていいのだろうか。私は最近、文学座の地方公演を観たが、扱う演目と演技の軽薄なまでの大げさで分かりすぎる芝居に辟易し途中で退席してしまった。ストリンドベリはこう続けている。「私は生活の歓びを力強い残酷な闘争の中に見いだす。ある教訓にとんだ異常な場合を、いわば一つの例外を、とはいえ公理を確認する一つの例外を私は選んだのある。これは平凡を愛する人を傷つけるかもしれないが」
この考えは芝居を掘り下げていこうとする人の心に小石を投げ込む考えを提起していると私は思う。このあとも彼の考え方をとりあげたいと思っている。



[18] 青森県のせむし男のその後

投稿者: 亜門啓太 投稿日:2014年 9月 4日(木)11時09分6秒 p4091-ipbf302sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

風蝕異人街が昨年てがけた「青森県のせむし男」がYouTubeでのアクセス数が11000件を超えてきた。関東同人誌交流会や東京の有名同人誌群系の掲示板に載せてから見る人が増えているようだ。これからもこうした手段で一部を見せるのはいいことだと思う。広告を載せてアクセスごとに収入が劇団に入るようにしたらどうかとこのごろ真剣に思っている。ときどき客演してくれる石橋玲の朗読「注文の多い料理店」は16万回を越えたらしいが、広告収入が入る設定にしていればけっこうな収入になり、旅まわりの費用も捻出できると思うのだが、本人は残念がっていた。今からでも遅くないと思うのだが・・・小劇団を長く続けることは資金面でも大変な努力のいることで、せっかくの志も道半ばで諦めてしまう例も多い。その点、風蝕異人街は私のしるかぎり20年くらい続けているのはすごいことだと思う。これからも多様な方法で資金を確保する道をさぐるのもいいことだと思う。
http://www.youtube.com/watch?v=dCIFckiFMhw



[17] 風蝕異人街「近代能楽集」続き

投稿者: 亜門啓太 投稿日:2014年 9月 3日(水)01時38分37秒 p4091-ipbf302sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

能の『葵の上』には存在しない怪しげな病院という場面を作り出したのが三島の創作技術の優れたところだ。この病院こそ官能の世界の縮図であり性という最も人類存続に必要であり、最もやっかいな悩ましい営みの伏魔殿なのだ。性的な悩みを抱え込んだ人々を受け入れるこの病院は治療に当たる医師や看護師たちがすでに問題を抱えた患者でもある。こうした治療する者とされる者との淫靡なやりとりは彼の別の小説『音楽』を連想させる。こしばきこうは醜悪にして美しく、淫靡にして純粋で、官能的にして、どこかに慈愛が満ちており、そうした人間世界の光と闇の縮図を小さな舞台上に造り出すことに成功している。生き霊による呪いは能の定番であり「鉄輪」も同じテーマと言えよう。呪いの聖地と言われる京都の貴船神社は鞍馬山の麓にあり、心に恨みを蓄積した街の女たちが真夜中に闇をついて出かけて行き呪わしい願をかけるわけだが、その怨念のエネルギーはすざまじいものがある。そこにあるのは性の愛憎である。捨てられた女の情念は生き霊となって対象の人物を呪い殺す。
三島が描き出した六条康子の生き霊こそがこのドラマの主役であり、本人から幽体離脱してさ迷う情念は古今を問わず人間という不可思議な生き物とは何かを考えさせる。愛する者は憎むものであり、与える者は奪う者である。癒す者は傷つける者であり、守る者はしばしば破壊者になり得るのだ。それはマクベスの良いは悪いで悪いは良いという魔女の託せんと同じものだ。黒装束でかためた三木美智代が演じた六条康子の生き霊はすさまじかった。鍛えぬいた肉体から鋭い精神の脈動が伝わってきて生身の人間より生き生きしている。作家も役者も実生活より虚構の世界で最も生き生きしていられるのと共通するリアリズムがここに存在する。置き忘れた手袋を渡そうとする行為は我々の日常生活における些細な行為が運命の分かれ目になることを如実に物語っている。霊と肉の隔たりは小さな手袋ひとつを届けるほどの些細なものであり、我々は日々それらを行き来して危うい生を営んでいるのである。三島はこうした作品をとうして自分の中に存在する分裂したキャラクターをあぶり出しているのであり、登場人物はすべて三島の分身であり、我々の分身でもある。こしばと三木、そしてその仲間によって作り出されている舞台空間は人間の深部を芸術という作法を借りて再現することであり、かなりの成功を収めていると私は思う。第三者的な希望を述べるとすれば近代能学集ということであるから能を彷彿させる何かを演出に取り入れてもいいのではないだろうか。『熱帯樹』で女の性の象徴である鼓を用いたように、どこかに能を思わせる動きや、仕手が用いる何かのアイテムを使ってみるのもどうだろうか。葵を演じた山田綾子は出番は多くないが透明な雰囲気をもっており呪われてベットから転落死する役をしっかり演じていた。こういう見えない所での演技も非常に重要なのである。別の作品でも活躍してほしい。演技力の進歩を如実に見せつけたのは光を演じた上村聡だろう。二人の女との愛欲の狭間で彷徨する男を立派に演じていた。今後ますます楽しみな俳優である。近代能学集から違う演目を風蝕が手がけてくれる日を楽しみにしている。



[16] 風蝕異人街の近代能楽集

投稿者: 亜門啓太 投稿日:2014年 9月 2日(火)07時24分48秒 p4091-ipbf302sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

アトリエ阿呆船で八月の終わりに提供されたのは三島由紀夫の戯曲『近代能学集』だった。その中から『班女』と『葵の上』を選んだようだが、この選択は適切だったと思う。五人の役者によって二つの芝居ががオムニバス風に演じられ、合わせて七十分はちょうど良かった。世阿弥が書いた能の班女は恋が成就してハッピーエンド的な結びになっているが、三島は本田実子という絵描きを登場させた。待たない女である実子は狂女になった待つ女である花子を溺愛する。その独占欲にかられた変質的なキャラクターこそ三島の班女のみどころなのである。吉雄との恋愛は成就することなく、花子は実子の策略によって倒錯した愛の世界に埋没していく。こしばきこうはシンプルな舞台をあえて作り出し、三島の描く究極の自己愛という精神世界をクローズアップさせた。狂女になった山本美里は演技に自分の色を出せるようになってきておりこれからが楽しみだ。吉雄を演じた本多竜二は先回の朗読劇で落語の形式で『玄関の人』を披露した役者だが声も風貌もよく、芝居の深みを年齢とともに確実に増し加えていくに違いない器だろう。やはりこのドラマの最大の怪物は本田実子であり、三島が 能の四番目物を現代戯曲にしたかったのも、この女を描きたかったからだろう。三木美智代はあらゆるものをけっして待たない女の耽溺した自己愛の世界を見事に演じていた。古典劇を多く手がけてきた三木は能を下地にしたこの芝居でも、いにしえの時代から人間が連綿と受け継いできた醜くも華麗な自己愛の世界を怪しく演じた。見事な演技だったと思う。もうひとつの演目である『葵の上』について次回に記すことにする。



[15] オーヘンリーの短編から

投稿者: 亜門啓太 投稿日:2014年 8月24日(日)18時19分14秒 p4091-ipbf302sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

ハーグレイブスの一人二役という短編にこんなやりとりがある。モデルにされた男に文句を言われた俳優の彼は答える。「私の職業ではあらゆる人生が私のものなのです。私はほしいものをとり、手に入れられるものをことごとく手に入れます。そしてそれを舞台からお返しするのです」
 俳優の皆さんはどうお考えだろうか。ここに優れた役者になるための大切な考えが吐露されている。これは作家にも言えることだが、役者はあらゆるアンテナを駆使して周りから学ぶべきである。あらゆる人間を見つめ、動物の営みを観察し、自然界の絶えなき流れと盛衰を感じ取るべきだろう。あらゆる人生はあなたたの手中にある。それは至る所にあり、当然ながら絵画や音楽や書物の中にも散りばめられている。それをいかに拾い集め、咀嚼し、思考し、センスメモリーとして自らの肉心に刻み込むかが勝負だろう。作家も全く同じことが言えるわけだが、俳優は唐十郎が言うところの特権的な肉体を通して芸術を表現するという特異な立場に立っている。非常にやりがいのある仕事だろうと私は思う。若い時から役者になりたいという願望を抱きながらも実現しないまま歳をとってしまった。鈴木メソッドは5分もしないうちに膝から発熱するしまつだ。若い役者たちには生活のための苦労もさぞかし多いことだろう。しかし俳優という表現者でいることは素晴らしいことだ。それは若い時からの下積みがないと難しい仕事であり、歳をとってから画家や詩人になることはできても俳優になることは不可能ではないにしてもきわめて難しい。若さに伴いがちな欲望を制御し、糧を得るために労苦し、たゆまず学び、叱咤されながら涙をのみこみ、何度も挫折と失敗を繰り返し、そうして成長し、研ぎ澄まされていく役者という肉体と精神を合体させた魂は、それ自体がひとつの芸術作品ではないかと私は思う。



[14] 芝居の力

投稿者: 亜門啓太 投稿日:2014年 8月23日(土)07時13分34秒 p4091-ipbf302sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

松本清張の「不安な演奏」の中にこんなせりふがある。旅館で隠撮された卑猥な場面に入っている声が本物と違うのではないかと文句を言った男に事情を知るクラブのママが答える。
「本当よ。あんたの言うとおり最初は旅館で撮ったものに本物の声を当てていたんだけれど巧く声がとれないの。大事なところが消えちゃったり、かすれちゃったりして聞いているほうは何が何だか解らなくなってしまうの。ところが芝居の声を当てると、これがうんと受けたのよ。なにしろ溜息も声も音もはっきりしているし・・・本物はつまらないの」
 時間配分も巧くいくし、芝居のほうが本物以上の臨場感を出せるということを裏社会に詳しいママが言う。この会話は芝居の力を端的に言い表している。優れた芝居はなおさらだろう。現実の何十倍もエキスの濃い人生模様の襞の奥の奥まで描くことが可能な場だということだ。それに深い芸術性を付与するのは演出家と俳優の技量、そして彼らが持つ内面力にかかっていると言えよう。だから小手先だけを鍛えても内面の深さと広さを養わないかぎり深い芝居はできない。観客はすぐに浅薄さを見抜いていまう。



[13] オスカーワイルド

投稿者: 亜門啓太 投稿日:2014年 8月22日(金)11時58分40秒 p4091-ipbf302sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp  通報   返信・引用

アーサーサヴィル卿の犯罪にこんなセリフがある。「俳優というものは幸福である。彼らは悲劇に出るにも喜劇に出るにも、苦しむにも楽しむにも、泣くのも笑うのも好きなようにに選ぶことができる。だが実生活ではそうはいかない。大抵の男女は自分の柄でもない役を無理やり演じさせられる。この世は舞台である。だが、その芝居の配役は間違っている」



[12] ストリンドベリ

投稿者: 亜門啓太 投稿日:2014年 8月22日(金)11時13分50秒 p4091-ipbf302sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp  通報   返信・引用

風刺小説を書いてフランスから国外退去をくらったことがあるストリンドベリ。彼の戯曲「父」を読んだ。臨終が近い大尉がベッドに臥しながらありあまる時間の中で想念を泳がせ、妻への疑念をふくらませ、娘への不信をつのらせ、果ては自分を病弱に生んだ母親をのろい、病気を移された昔の愛人を糾弾する。人間の中に疑念が巣食うときに生じる悲劇を描いた心理劇はみごとな作りになっている。5人くらいで演じられる作品だからいつか舞台で観てみたいが、主役の男のセリフが実に長いので俳優はさぞかし苦労することだろう。


レンタル掲示板
31件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。

お知らせ · よくある質問(FAQ) · お問合せ窓口

© GMO Media, Inc.